本佐倉城跡、遺構巡見

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2025-6-8  

本佐倉城跡 遺構巡見.pdf

本佐倉城ふるさとガイドの中山さんの案内で本佐倉城遺構、跡の巡見、説明をいただきました。

戦国時代までの千葉一族の分裂・権力争い、豊臣秀吉による小田原城後北条氏攻めによって滅亡へ、歴史ドラマの妄想を、、。

 本佐倉城は、馬加系千葉氏の宗家相続を認めない上杉氏からの攻撃を防ぐためにも、外郭部や支城なども含めて強固な防衛力を備えた縄張りになっている。 また、土塁などの築き方等から、外郭の「荒上」地区や「向根古谷」等の構築は、戦国末期に築城されたものと推測されている。

1469年~1486年ごろ、将門山に千葉輔胤が築城したという。 享徳の乱において古河公方・足利成氏を支持しており、千葉宗家の拠点だった亥鼻城ではなく、古河にアクセスしやすいこの場所を選んだと推測される(印旛沼の南)。小田原征伐の1590年まで約100年に渡り、千葉氏の居城だった。

印旛浦に面する標高36mの台地上に築かれ、城の規模は東西約700m、南北約800m、面積約35万平方メートル。10つの曲輪を持つ大規模な城で、内郭群、外郭群、城下町を含む総構えの三重の同心円で構成されている。内郭は城主のための空間、外郭では家臣の屋敷などが置かれた空間である。

1.5km四方に城下町が点在。佐倉、酒々井、鹿島、浜宿の4箇所 城下には寺院が20、神社が17確認できる(祈祷寺として文殊寺、吉祥寺、東光寺、大仏頂寺、宝珠院)

江戸時代になると、佐倉藩として佐倉城へ城下町が移転したため、この地は土地開発で壊されることがなかったようだ。幸い後世の土地開発がなく、土塁や空堀などがしっかり残っており、国指定史跡なっている。とりあえずは遺跡保護の面では安心だ。

まず、本佐倉城を築いた千葉輔胤および千葉氏の略系図を確認。

千葉氏の始まり

桓武天皇から始まり、桓武平氏の祖である高望王を先祖に持つ。平将門の叔父である平良文から平常兼へとつながるが、この平常兼が、下総国千葉郷に拠点をおいたことから千葉介を称し、千葉氏の初代当主となる。3代目の千葉常胤(平安末期~鎌倉前期)のとき源頼朝に従い、千葉氏の地位を盤石なものとする。

千葉氏 宗家滅亡

1455年に享徳の乱が勃発すると、千葉氏・馬加(まくわり)家の馬加康胤は古河公方・足利成氏を支持し、千葉氏宗家である千葉胤直・胤宣父子を討ち、宗家を滅ぼす。(宗家の居城である千葉城を攻めたのは、馬加康胤に加担した原胤房)

千葉氏当主を名乗るものの、後に馬加康胤・胤持の父子は、室町将軍・足利義政が派遣した東常縁(千葉氏一族・胤頼を始祖とする)によって討たれる。

下総千葉氏の登場

宗家の滅亡によって、馬加康胤の子孫である下総千葉氏と、宗家・胤直の弟である胤賢の子孫である武蔵千葉氏 とに分かれる。 

※本佐倉城を築いた千葉輔胤は、馬加康胤の子で下総千葉氏と分類される。(※孫という説もあり、また、岩橋氏を名乗っていた。千葉輔胤については諸説あり)。千葉輔胤は宗家のいなくなった千葉城を居城としていたが、東常縁に攻められ佐倉に逃れ、本佐倉城を築いたと伝わっている


本佐倉城は千葉氏の居城跡で、続日本100名城にも選ばれています。土塁や空堀など、良く残っている部分が多く、城好きにはたまらない場所です。京成大佐倉駅からも徒歩圏内なので、気軽に訪れることができます。

 

本佐倉城の魅力

土の城:石垣ではなく、土塁や空堀が中心の城跡です。

整備状況:よく整備されており、各所に説明板やパンフレットがあります。

案内所:案内所では、ボランティアガイドによる案内も受けられます。

 

見どころ:

空堀:巨大な空堀は圧巻です。

東山:東山の土塁からは、筑波山が見える絶景ポイントです。

馬出し:外郭の向根古谷には、馬出しが残っています。

歴史:千葉氏の戦国時代の居城跡で、縄張りは強固な防衛力を備えています。

交通:京成大佐倉駅から徒歩10分程度です。

 

訪問のポイント

案内所:

案内所では、パンフレットや冊子、出土物の展示があるので、最初に訪れるのがおすすめです。

 

整備ルート:

整備ルートに沿って散策すると、効率よく見学できます。

 

ボランティアガイド:

ボランティアガイドによる案内を受けると、より深く歴史を学ぶことができます。

 

周辺文化財:

本佐倉城跡周辺には、武家屋敷や旧堀田邸など、文化財もたくさんあります。

 

その他

スタンプ:京成大佐倉駅や本佐倉城跡案内所には、スタンプが設置されています。

御城印:佐倉城の御城印も購入できます。

 

まとめ

本佐倉城は、土の城の魅力を存分に味わえる場所です。歴史を感じながら、城内を散策するのはいかがでしょうか。

 

 本佐倉城は、馬加系千葉氏の宗家相続を認めない上杉氏からの攻撃を防ぐためにも、外郭部や支城なども含めて強固な防衛力を備えた縄張りになっている。 また、土塁などの築き方等から、外郭の「荒上」地区や「向根古谷」等の構築は、戦国末期に築城されたものと推測されている。

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このページは、blogskawano.netが2025年6月10日 08:55に書いたブログ記事です。

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